9月26日・27日と、経営者の中村公一さんが代表を務める株式会社GOJO.の
長崎ツアーに参加してきました。
はじめての長崎でしたが、日本人として
「いままでどうしてここを訪ねていなかったんだろう」
というくらい、この長崎は日本の歴史上大変重要な場所というのを
学ぶことができました。
「鎖国」とは何だったのか
なぜ日本はヨーロッパのうちオランダとだけ貿易することになったのか
なぜ九州には陶磁器が多いのか
江戸時代が終わって明治維新が起こったその背景には何があったのか
原爆が落とされたのがなぜ長崎だったのか
学校では決して教えられることがない歴史が、現地の歴史的な
場所を訪れることで初めて知ることができました。
全部を書くことはできませんが、ほんの一部だけ
私が見てきたことをご紹介できればと思います。
1.旧香港上海銀行長崎支店記念館(http://www.nmhc.jp/museum_hsb/)
日本最初で最初に設立された銀行は、新一万円札にもなった
渋沢栄一が創設した第一国立銀行(今の日本銀行)ですが、
銀行としての拠点ができたのは、この香港上海銀行長崎支店が最初でした。
略称でいうとHSBCですね。
アヘン戦争後にイギリスの植民地となった香港で創設されました。
創設者はトーマス・サザーランドというスコットランド人です。
ちなみに中国との関係で重要な意味を持つ人物は梅谷庄吉と孫文。
梅谷庄吉は日活の創設者で、孫文の志に共感し、孫文の活動を
資金的に支援するプロデューサー的な役割を担っていたそうです。
2.グラバー園(https://glover-garden.jp/)
トーマス・グラバーというスコットランド出身の武器商人で、
開国の機運のある江戸末期に武器や弾薬を持ち込みました。
明治維新の裏にはこのグラバーの活躍があったと言われています。
ちなみに「開国」といいましたが、「鎖国」という言葉は
明治維新新政府が自分達を正当化するためのプロパガンダだったようです。
「欧米列強がこれだけ近代化しているにもかかわらずこれを受け入れない
幕府体制はアホだ。だから開国をして西洋文化を取り入れるべきだ」
と言いたかったためだとか。
実際、出島を中心にオランダとの貿易はしっかり行われていましたし、
対外的な窓口として松前口・対馬口・長崎口・薩摩口というのが設けられていて、
江戸幕府はそこから外国の情報を入手し、世界の情勢を把握していたようです。
「オランダ風説書」といって、オランダとの貿易を許可する代わりに
世界の情報を日本に伝えるということが行われていました。
3.出島(https://nagasakidejima.jp/)
地名は有名ですね。ここでオランダとの貿易が行われました。
オランダ以外にも貿易相手国としてスペインやポルトガルも候補だったようですが、
彼らは布教活動と称して日本に侵入しようとしていたらしく、
これを嫌った幕府は同国とは貿易はしなかったようです。
オランダは布教活動はせず純粋に商売をするということでしたので、幕府側もこれを許容。
オランダを通じて世界との窓口になりました。
ちなみに学校教科書では「シーボルト事件」というのを教わると思います。
かれはドイツ人の医者で、オランダ船に乗って日本まで来ていたのだとか。
「なんでドイツ人がオランダの船に?」となりますが、彼は貿易を担っていた
オランダ東インド会社の船医として乗り込んでおり、「黄金の国」と言われる
日本への調査(スパイ)が目的でした。
日本人からは、西洋医学を教えてくれるいいお医者さんとして慕われていたようですが、
スパイとして日本地図を海外に持ち出そうとして国外追放されます。
これがあの「シーボルト事件」です。裏側にはいろいろな思惑が渦巻いていたんですね。
4.長崎縣護國神社(https://yaokami.jp/1420120/)
日本の戦没者たちが祀られている護国神社。
護国神社は全国に52あるそうですが、長崎にもあります。
護国神社がないのは神奈川県くらいでしょうか?
今の我々があるのは日本を守ってくださった英霊たちのおかげですから、
しっかりとお参りしてきました。
5.長崎歴史文化博物館(http://www.nmhc.jp/index.html)
長崎の様々な文献などが納められている博物館です。
長崎奉行所は外交の窓口ということもあり、かなり重要な拠点だったようです。
ちなみに当時も会計不正があったとの展示が。
いつの時代も帳簿って大切ですね。
6.長崎原爆資料館(https://nabmuseum.jp/)
1945年8月9日、広島に続いて原爆を投下されたのがこの長崎です。
実はこの原爆、当初は長崎ではなく小倉に投下される予定でした。
しかし小倉の住民が煙幕を炊き、視界不良となったことで小倉への投下を断念。
次候補として予定していた長崎へ投下されることになったようです。
ここで疑問なのが、なぜ視界不良程度で小倉への投下が断念されたのか?ということ。
住民の殺害や拠点の破壊が目的なのであれば、視界不良程度でもその目的は果たせるはずです。
一説としてこの原爆、実験として落とされたという見解があります。
実験が目的だとすれば、視界が不良だと欲しいデータはとることができないですよね。
だとすると小倉での投下を断念したということも筋が通ります。
なお展示の後半には、オーストラリア人の被害者(捕虜?)の談話もありました。
外国人の間では、この原爆について見解が分かれているらしく、日本人と同様
絶対に原爆は使ってはならなかったという見解と、あそこで原爆を投下したことで戦争が終わり、
追加の犠牲者が出ることを防げたのだという見解がありました。
決して原爆を正当化するつもりはありませんが、こういった見解を持つ外国人もいるのだ、
ということも念頭に置いたうえで、我々はこの原爆の歴史とどう向き合っていくかを
考える必要があります。
7.終わりに
まだまだ語りつくせないことがいっぱいあるのですが、いったんこれくらいに。
学校で習う歴史は、どうしても受験勉強という色合いが強くて、
どういう背景で歴史が動いてきたかという点については
ほとんどと言っていいほど触れられることがありません。
皆さんもぜひこういった場所に直接足を運んでいただければと思います。
~編集後記~
- ペン字
- IPO実務検定試験上級の勉強。機関設計の続き。
- 二宮尊徳の「報徳記」読了。この方は日本ナンバーワンのコンサルタントだと思います。
- 窓に張り付いて外を見張っているうちのニャルソック
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